短編往来ー8


短編往来ーわたしが出会った人々(第8 回)
 【岩波映画その2】 1955~56年(昭和30~31)  
 次の仕事は東京電力のPR映画とは言え,またしても劇形式だった。脚本は岩佐氏寿(のちに鹿島映画専務)で,演出は衣笠十四三(衣笠貞之助監督の実弟)だった。社員の助監督も当時は大勢いた筈だか,劇映画に関心がなかったのか,チーフ助監督の仕事が私に回ってきた。
■「あかるいくらし」の顛末
 戦後10年,この頃には発電所の建設も進み,やっと電力事情が回復して,電気洗濯機や電気釜が登場し,いわゆる電化生活が始まった時期である。裸電球の定額消費から次第にメーター消費方式の契約に代ってきて,電気の使い方をPRしなければならなくなってきた。
「あかるいくらし」は新しい電化生活の知識を普及するための映画で,脚本によれば登場人物11人の他子役7名,エキストラ30名という大掛かりなものだった。
 プロデューサーは小口禎三氏,撮影はフリーの広川朝次郎(声優広川太一朗の父)で助手は竹内亮,照明は京都の藤木一義(藤木義門の兄),製作進行はフリーの郷田昭夫と新入社員の中沢恒夫(農工大出身)。録音はお馴染みの片山幹男で,作曲は草川啓と決まっていた。
 早々にロケハンを開始して,香盤表の作成と役者選びの作業が進み,早々に撮影スケジュールができたものの,衣笠監督は浮かぬ顔で 「こんな本では演出できない」 とクランクインしようとはしない。そのうちに自分から脚本を書いて持ってきた。岩佐氏の本からいえば,ご用聞きを狂言回しにした落語風なタッチに代っていた。待ちくたびれてやれやれと思ったら,今度は東京電力の広報課のOKが出ない。
 困り果てた会社はとうとう岩佐・ 衣笠両人を近くの花月旅館に缶詰にして脚本の改訂をさせた。時折覗きにいっても,ふたりの意見や好みも違い,私も協力していろいろ案をだしても少しも進展 する様子がない。待ちくたびれたスタッフからも,助監督はなんとかしないかとも急がされた。
 もう待ってられないと,近くの電気屋に飛込んで,電化生活のための屋内配線工事の知識や料金を聞きだしてから,自宅に戻り徹夜して 「あかるいくらしーみち子の夢」 という一幕物の様な脚本を書き上げた。ストリーは古い日本家屋に住む新婚の妻を主人公にして,快適な電化生活を夢見つつ,古い家屋の電気設備を配線工事によって改善していくという話にした。電気器具についての知識は近所の 「丸井」 での体験を取入れた。
 翌朝,花月旅館にいくと相も変らず二人が顔つき合せて苦吟していた。私が原稿を見せると,衣笠監督は読み終った途端 「よっしゃ,これで行こう」 と立ち上がって,その足で私を連れてタクシーで東電へと向かった。
その決断の早さに私の方が面食らった。それほどシナリオに自信があるわけではない。車中衣笠さんから 「君は結婚の経験はあるのか」 と聞かれた。「いや独身です」 と答えると解せない様子だったが,古川良範の助手をしていたことを知ると 「なんだ良範の弟子か」 と納得したようだった。
 東京電力広報課には,かって日映 科学の時会ったことのある鈴木巌蔵氏がいた。私の名前を憶えていて,「日映科学の人は兄弟か」 とも聞かれた。「いや本人ですよ」 としか答えられなかったが,彼の印象からは,ひ弱なシナリオ青年からその後のロケ体験を経て活動的な青年に変っていたらしい。その時の印象がよかったの か,私の本に意外とあっさりOKが出た。その上,日映科学の時の事情まで打ち明けてくれた。「企画としては君のに決めたが,順序として岩波映画に発注する ことになっていたので,申し訳ないが日映科学には発注しなかった。その代わり別の農業電化の映画を日映科学には出した」 ことまで話してくれた。
 そういえば,岩波映画で岩佐氏寿脚本,柳沢寿男監督(助監督は時枝俊江),藤瀬季彦撮影の「野を越え山越え」 という送電線保守の苦労を描いた東電PR映画の内容がよく似ていたことに気が付いたが,柳沢監督の感性と藤瀬キャメラマンのカメラが気にいっていたので,不愉快な思いはしなかった。シナリオライターとしての面目が回復した思いの方が強かったかもしれない。
 ともあれ,その翌日には,スタッ フ表の脚本のところを私の名前に替えたシナリオが印刷に回され,新しくロケハンと役者選びに入った。さらに驚いたことに山村製作課長は,助監督契約に新た に正規の脚本料を加えた契約の提示をしてきた。当然といえば当然のことだが,頼まれたわけではないのに自分から勝手に書いた本代が支払われるということも 感激ものだが,何よりも衣笠監督の意向を大切にした当時の岩波映画の製作態度にも感心した。
□「みち子の夢」のクランクイン
 こうして新しい脚本による配役は,新婚夫婦に高原俊雄(青俳)と津村悠子(民芸・吉村公三郎監督大映 「西陣の姉妹」 の三女役でデビュー)に決まり,その他の配役は 「55年会」 の清水マネージャーが55年会から二人と 「芸術クラブ」 から浮田佐武郎,有馬是馬を連れてきた。エキストラは国際俳優協会とか第一プロから延べ 136人という結果になった。
 古い日本家屋には,勝手を知った 奥沢の古川良範の家をロケセットに借用し,電化生活のモデルハウスには東電課長の自宅の洋間を借りた。この家は当時としては珍しい30アンペアぐらいの電 力が入っていた。ドラマのシーンは調布の中央映画スタジオでのセット撮影として12日間ぐらいの撮影スケジュールとなった。
 美術は山崎正夫で,三人の助手のチーフに飯田公夫 (のちに松山映像企画で 「港北ニュータウン」 の演出)がいた。これは美術スタッフとの初めての仕事となった。小道具の仕事からは開放されたが,衣裳はいなかった。スタジオでのセット撮影も初めての経験だった。
 クランクインは,中野駅北口商店街のナイトシーンからで,通行人はエキストラを動員して主役の高原俊雄が帰宅途中立ち寄る果物屋のシーンを撮影した。衣笠監督は,エキストラの扱いに戸惑っていた岩波スタッフや見物人にも気にもせず,手慣れた様子で演出していた。
 衣笠さん以外は,多分花月旅館だったと思うが,全員泊り込んで,昼間ロケと夜間ロケを合せた12日間の強行スケジュールをこなしていった。
 ロケセットでも同時録音の時は,カメラは初めてみるミッチェルだった。
撮影部には器材担当の森田正一,助 手には竹内君の他,金宇満司(多分新人社員)がついた。当時のイーストマンカラーのライトは大変で,多分1対4ぐらいのラチチュードでフラットなライティ ングをしていた。照明部は藤木一義に8人の助手がついていたが,蛍光燈の間接照明の部屋のライティングには,藤木ライトマンは小型電球を一杯持込んで,見 事に間接照明の雰囲気をつくった。
 録音部はお馴染みの片山幹男に, 社員の南条善記と鈴村和彦(1931年生れ)が助手についた。同時録音のカチンコボードは他に打てる人がいなかったので,私の仕事になった。この一作でカ チンコ打ちの技術は十分に習熟してしまった。このお蔭で,岩波映画での岩佐演出の同時録音シーンのカチンコ打ちだけに応援助監督として呼ばれたこともあっ た。
□「みち子の夢」熱海での編集
 同時録音のシーンは,現在のス ティーンベックのような画と音を合せる編集機がなかったので,サウンド入りのラッシュを焼かなければならなかった。磁気テープからサウンドネガを起こし, カチンコに合せてネガ合せをしてラッシュを焼いた。映写機の構造上サウンドは19.5駒先行するのでラッシュ編集では,カッチングの度にカットされたサウ ンド分のマークを前のカットに付けるようなことをやった。そのために女性の編集者がついた。自映連編集者集団から一番若い高橋晴子が派遣されてきた。(そ の後,三井プロでも同録シーンの編集で付き合うことになる)
 いざ編集となると,衣笠監督は東京に居なかった。熱海でロケだというので,それなら出かけて行けというので,高橋嬢とふたりで,アセトンと鋏,巻取機にバスケット二つを提げて熱海に向かった。
 衣笠さんは熱海の保養館というところにいた。衣笠さんが昼間ロケに出ている時は,旅館のビリヤード室で玉を突きながら帰りを待って,三日ほどで編集を終えた。
■岩波映画社員旅行で伊香保温泉へ
 「みち子の夢」 のラッシュ上がりを待っていた時,岩波映画で社員の慰安旅行があるので君も来ないかと,藤瀬キャメラマンに誘われた。何思わず同行したら,伊香保温泉の塚 越館というところで,大広間にどてら姿で40人ぐらいの社員が集った。床の間を背に小林勇(専務)がやはりどてら姿で座り,今年の新入社員が呼出されて挨 拶をした。先述の演出部の肥田侃とか撮影部の鈴木達夫や金宇満司,製作部の中沢恒夫や録音部の南条善記,鈴村和彦などもそうだったかもしれない。ひとりひ とり小林勇から盃を頂戴したような気もする。シャンシャン手拍子の手締めもあった。
 これまで付き合った短編会社の中 では,岩波映画は最も近代的な会社だと思っていたが,意外にも古風な仕来りが残っているとは,これは驚きだった。このような風景は,この時が初めてで,そ の後どこでも体験したことのない情景だった。ただ私のようなフリーが潜り込んでいることを誰も問題にはしなかったのも,よく考えれば不思議なことかもしれ ない。
 ただ,戻ってきた時に経理の河上重役からは,君はフリーなので,費用はギャラから引かせてもらいますといわれたことだけ,鮮明に憶えている。
■「中部電力五ヵ年の歩み」と富澤監督の誕生
 丁度この頃,戦後の電力再編成九分割から五年目,日本の電力会社は戦後漸く産業復興や市民生活に必要な電力を賄えるところまで回復していた。各電力会社も競ってPR映画づくりに走っていた。
 そういうときに桑野茂の脚本で中部電力の仕事が入った。これが富澤幸男の第一回演出作品となった。当然私も加藤和三もスタッフに加わった。
 ロケの最初は山奥の水力発電所の撮影だった。雪深い発電所への道は,スキーを履いてしか行けなかった。富澤監督と私,撮影部の加藤和三と賀川嘉一 (加藤和三と同じ新世界映画出身) の四人はスキーに毛皮シールを着けて深い雪を掻き分け掻き分け上って撮影した。私には生れて初めてのスキー体験だった。この時の体験はその後の日映新社でも大いに役立った。
 
 中部電力全域のロケハンが終っ て,スケジュールが決まり,ロケに出る時がきた。ところが富澤新人監督はメインの発電所撮影の演出はお前と加藤和三や賀川嘉一でやれと言って,富澤幸男は 江連高元カメラマンと富士山へ登ってしまった。本来はB班の仕事なのに,新人監督の意図はまず中部地方の最高峰から撮影を始めたかったのかも知れない。
 まあいいやと,私たちは加藤和三と賀川嘉一と連れ立って,ライトマンを大勢引き連れて,中部電力全域の水力と火力発電所のロケに出発した。製作進行には劇映画出身のフリーの真野氏が加わった。照明技師は東宝出身の島さんというベテランだった。
 名古屋では,広小路の朝日新聞社の前の中村屋という和風の旅館だった。
そこに大勢のライトマンともども長 期滞在して撮影した。夜は全員揃って夕食をする。最年長者のライトマン島さんだけは晩酌を欠かさない。ところは我々若いスタッフはそこそこに夕食を済ませ ては,名古屋の夜を探訪に出かける。スタンドバァーへいっても精々サントリーの「白」程度を飲んで女の子とお喋りをするくらいだが,みんな勤勉に夜の名古 屋を探訪していた。
 そうする内に,富士山の撮影を終えて,富澤監督が我々のところに合流してきた。何と足を引き摺りながら名古屋の宿に現れた。富士山から一気に駆け降りたお蔭で,膝をやられてまともに歩けないようになっていた。
 初めてセスナーで名古屋市内の中央通りの低空撮影も経験した。パイロットは戦闘機で鍛えた腕で名古屋市内の低空飛行を何度も繰り返して,同乗スタッフはフラフラにされた。
 中部山岳の撮影はセスナーでは無 理というので16人乗りの双発旅客機のデハビランドをチャーターした。後部のドアーをはずして,ロープを張り三脚を据えての撮影だった。私はパイロット席 と後部のカメラの間を往ったり来たりして,とうとう途中の座席に腰を下ろすほど草臥れた。最後には加藤和三はパイロット席の窓を開けてアイモを回した。初 めて経験する3000㍍上空の空気は実に冷たく爽やかだった。
 富澤監督が合流して加藤和三キャ メラマンは安堵したのか,休暇が欲しいと言いだした。当時,彼は新婚早々で茅ケ崎の新居に新妻を残してロケに出ていたのだった。スタッフの殆どは独身で名 古屋の夜を飽きずに楽しんでいたので,誰も新婚の心境など判るわけがない。後の撮影は賀川嘉一に任せて,飛ぶようにして茅ケ崎へと帰っていった。ところが 新妻は茅ケ崎の家にはおらず,実家に帰っていて,その夜は家にも入れず野宿したと楽しげに報告した。
 中村屋旅館の生活は結構長かった。毎朝女中が蒲団を剥がして起こしに来る。照明部で一番若かった松橋君(弟)はまだ十代だった。毎朝彼がボッキしているといっては,照明部の連中は女中と一緒になって蒲団剥がしを楽しんでいた。
□中部電力の川崎さん
 中部電力の担当者も若かった。川 崎さんは日大芸術学部出身で,松竹大船のシナリオ研究生で馬場当などと同期だったが父親の命令で松竹を止めさせられ,中部電力に就職させられたという。松 竹での経験から,シナリオについてもスポンサーの癖に「起承転結」をうるさくいう。シナリオ研究生としては私の好敵手だった。彼の上司である村松課長は慶 応出身の癖に口うるさい人だった。岩波の山村圭二郎製作課長にいわせると,中部電力の村松課長がうるさいので,助監督は苗田にしろということだった。その 頃の私は理屈っぽくて,かなりうるさかったのかも知れない。
 撮影が終っても富澤新人監督は,編集も私任せで自分からは何もしない。コメント台本も旅館に泊って書くのだか,スポンサーの川崎さんと私のやり取りをにこにこ眺めているだけで,自分からは何も言わない。ひょっとしたら映画監督とはそういうものかも知れない。
■ハイファイ時代の幕開け
 この頃,LPレコードが初めて出た。一枚が 2,000円以上で,輸入盤だと 2,500円もしていた。なにしろ初任給が一万円を越したぐらいの頃である。ハイファイセットなどなかなか買えない。そこで電蓄を真似たセットのデザインをして,図面をもって品川あたりの木工屋にケースを注文した。
 プレーヤーはナショナルのフォノ モーターにニートのカートリッジ(マグネチックタイプ)を組合わせて自分で組立てたが,アンプは録音技師の片山さんに頼んだ。彼はその頃では貴重だったダ イヤトーンの8インチスピーカーをもってきて木工屋に作らせたスピーカーボックスに取付けてくれた。アンプは6球スーパーで頼んだが,彼はスーパーノイズ が出ると言って,高周波一段増幅という真空管アンプを作ってくれた。ラジオは新宿では電波が強くてそれでも十分だった。実費は4万円近くもかかった。
 片山さんは凝り性だったのか,その後もオッシログラフの計測器を持っては私のアンプの調整にやってきた。当時は各レコード会社ごとに録音特性が異なり,プリアンプでスイッチの切り換えが必要だった。
 富澤幸男も朝倉セツと結婚したばかりで,新居に欲しいと言って私の図面を持っていって品川の木工屋に作らせた。アンプはもちろん片山録音技師が作った。
 電気工学では,人後に落ちない矢 部さんも自らアンプを組立てて,ハイファイの音をあれこれ試しながら楽しんでいた。この頃できたばかりのナショナルのダブルコーンのスピーカーを入れたか ら聴きに来いというので,阿佐谷の家にもよく行った。矢部さんはユージン・オーマンディの演奏の大げさなところが面白いとといって,そのレコードを聴かせ てくれた。娘さんがヴィオリンの稽古をしていて,ラローの 「スペイン交響曲」 もよくかけていた。
 この頃はPR映画は作曲が多かっ た。伊福部昭は言うには及ばず,草川啓とか,長沢勝俊とか三木稔(共に後の日本音楽集団)やら電子音楽の富田勲とかが出入りしていた。作曲家たちもハイ ファイ電蓄を持っていたが,片山技師はオッシロメーターを抱えて,作曲家の家を訪問しては,音が気にいらないといって,アンプを調整した。彼に方法は,真 空管の程度を調べて,歪のある真空管を取り去るだけで,爽やかな音になったと言う。
 
 こうして片山録音技師の協力に よって,新宿花園町の四畳の部屋に自家製のハイファイセットが居座った。矢部さんとか富澤幸男もその音を聴きにきた。賀川嘉一も婚約者のバレリーナーを連 れてきた。それまで聴いていた丸井の月賦で買ったアカイのセットは,ローンの肩代わりで賀川嘉一に譲った。周りの青春を眺めながら,空しくハイファイの音 を聴きながら,シナリオとだけつき合っていた。
■衣笠監督と中村麟子さん
 新宿花園町に居を構えたお蔭で,結構来訪者が多かった。もちろんまだ電話など引けるわけはない。家主の家には電話があり,新宿で退屈した連中からよく呼出が掛かった。そんな時はいつも下駄履きで出かけた。
 衣笠監督もやってきた。日映科学の中村麟子さんと一緒だった。これは意外な取り合せだった。用件は日映新社での仕事の脚本依頼だった。私が日映科学で仕事をしていた頃は日映新社は 「朝日ニュース」 だけだったが,この頃には教育PR短編の製作を再開したという。日映科学については先に書いたように,高田清文氏からの入社の誘いを断ったばかりだった。この衣笠さんの仕事がきっかけで日映新社の専属契約者として,その後十数年間を過ごすことになる。
 この時,中村麟子さんは環境が気にいったのか,この辺りで部屋を探したいというので,不動産屋に同行して,部屋探しを付き合った。何ヶ所も物件を一緒に見て歩いたが,結局は気に入った部屋が見つからず果たせなかった。
 私の岩波映画との付き合いは,富澤監督との中部電力の仕事を最後に,日映新社との専属契約によって,その後十数年間中断した。


WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう