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目黒の日映新社


著者略歴 — 苗 田 康 夫 —

<1930年生まれ。香川県出身。早稲田大学第一法学部卒。1951年より記録映画社で脚本演出の助手を経てフリーとなり、日映科学映画製作所、新理研映画社、三井芸術プロダクション、岩波映画製作所などで脚本、助監督を担当。
ーー詳細は別途ーー

苗田康夫さんの手記

目黒の「日映新社」(その1) 


—–昭和37年(1962)日映新社東京本社は銀座を追われ,通称目黒の東宝傘下「東京映画」スタジオに移転した。並木通りの建物はその後、東宝麻雀とか東宝食品の経営する酒場に変身した。目黒のスタジオは海軍大学の跡地で,戦後のどさくさに紛れて東宝にあった「社団法人文化映画協会」が払い下げを受け,その実は東宝不動産が管理。隣接して国立伝染病研究所と公務員住宅があり,目黒駅に近い裏門に「文化映画協会」の看板が懸かっていたが,その正体は私がいた昭和45年まで一度として見聞したことがない。海軍大学の実験用プールが撮影用スタジオに変身していた。

 本館一階にニュースと短編が入り、CF部(ニュース出身の水野肇部長)もできた。二階には試写室,畳敷きの大部屋とスターの個室があり,三階は四階までぶち抜きの録音用大スタジオで,グランドピアノが置いてあり、作曲による映画音楽25人程度の演奏を録音していた。ここが後に播磨執行部主催の組合大集会のステージとなる。四階はネガ整理の編集室,五階屋上の一部に個室化した35㍉ポジ編集室があり,編集室を出るとビアガーデンの様な広い屋上からは隣の自然植物園内を散策するアベックの姿や,西には視界を遮る物なく,沈む夕陽と富士の霊峰を望むのみであった。

 銀座から上大崎の広々とした撮影所に移り,労働組合もバラックながら役員会議のできる事務所を得て,世間並みにスト権をふるった春闘を展開した。執行部は先にふれた高瀬昭治*(昭4生)委員長と滝沢林三(昭7生?)書記長だった。高瀬滝沢執行部は岩波映画労組(花松正卜委員会)と協調して短編労組連合と記録映画作家協会(各社社員演出とフリー会員)を軸にして短編労組統一闘争を試みたが,日共代々木細胞の集る東京シネマ労組の拒否にあって実現せず,春闘が終わると程なく,高瀬委員長は退社して東京12チャンネルへ,滝沢書記長は学習研究社のプロデューサーに転身していく。その頃,ようやく東京に転勤してきた播磨は新婚の妻(ビルマ派遣の日本ニュースカメラマン泉信二郎大阪支社長の長女)とともに膨大な量のレーニン著書を新居に運び込んできた。    

*新理研東大美学三人と同期。厚木たか訳「ポールローサー記録映画論」の共同翻訳者。12チャンネル労組初代委員長。朝日新聞安保問題調査室を経て「朝日ジャーナル」編集長(筑紫哲也の前任)から徳島大学教授へ。

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