短編往来(序)

++(注)この原稿は「萬客往来」8号―22号(1991年1月―1994年3月)に連載されたものである。(編集発行人は藤沢市在住の味岡 亨)++

 短編往来―わたしが出会った人々
(1951-1970)

++(注)この原稿は「萬客往来」8号―22号(1991年1月―1994年3月)に連載されたものである。(編集発行人は藤沢市在住の味岡 亨)++

 短編往来ーわたしが出会った人々(序)

1951~1971


 播磨追悼文で始った「日映新社」 についての連載は,日映新社の歴史でも回顧録でもない。播磨が登場する時代の「日映新社の状況」についてのメモの様なものである。横堀幸司に「その歴史を 共有しなかった俺には面白くも可笑しくもなく」と欲求不満をぶち撒かれようと,これはそういうものなのだ。幸いなことに奥田益也が「わが日映新社時代」の 連載を始めてくれたので,そちらの方に期待して欲しいと思う。

 「日映新社」も「岩波映画」もそ の一つではあるが,わたしがこれまでかかわってきたこの業界をなんと呼んでいいのか,いまだに確信のもてる名称がない。たしか戦争中は「文化映画」と称し ていたようだが,戦後はGHQだかの指導で「教育映画」と総称されたいた。もちろん「教育映画」を製作して,フイルムライブラリーにプリント販売して,製 作費を回収するルートは存在したが,それが成り立たず,専ら諸官庁や公共団体のスポンサー資金を頼りにして「教育映画」が製作されていた。映画というもの は劇場で上映されるか,ホールなど会場で公開して,入場料で収益を上げるのが一般に知られる「映画業界」であるのだが,この世界では,上映で収益を上げる なんてのは,まさに氷山の一角みたいなもので,大勢は「受注産業」として,時代とともにスポンサーの要請に対応して,様々に変貌してきた。

 松竹映画でその生涯を過ごされた 横堀幸司などから見れば,理解しがたい業界である。「教育映画作家協会」が「記録映画作家協会」と改名したり,「教育映画製作者連盟」が「映像文化製作者 連盟」に改称したり,「教育映画祭」やら「PR映画祭」から「産業映画祭」また「科学技術映画祭」など様々な振興策が登場したり,「国土開発映画」や「観 光映画」,また「教材映画」や「実用映画」(注1),はたまた「医学映画」,「リクルート映画」に「社員研修」「販売促進」などなど,ほとんど行着くとこ ろを知らない。その上「テレビ映画」「販売用ビデオ」まで登場している。

 大阪万博のころには,展示用映像としてオーディオ・ビジュアルつまりAVというのが登場した時期もあったもあった。しかし,いまではAVは,アダルト・ビデオの専売特許になっている。

 この業界に働く各社労働組合の連合体だけは,発足以来一貫して「短編映画労組連合」と称し続けている。もはや組織は存在しないが。

 つまるところ短編映画は商売とし ては成り立たない。劇場で上映しても収益は期待できない。スポンサーからの受注で採算性のある製作をする業界である。しかし,たまには自主作品と称して 「プリント販売」であれ,「自主上映」であれ,商売に挑戦することもある業界である。そのような業界で,わたしはこれまで生きてきた。そして多くの先輩た ちに様々なプロダクションの仕事で出会った。もちろんわたしよりも先に何年も前からこの業界に生きてきた人たちである。みんな「文化映画」であろうと「教 育映画」であろうと「記録映画」「科学映画」「PR映画」を問わず,この業界で映画をつくっていた。戦時中の「文化映画」出身者が多かったが,「劇映画」 出身者や「劇作家」もいたし,稀に「教育者」もいた。

 大半は戦後の民主化運動と科学知 識の普及という時流の中で「映画による教育啓蒙」を使命感に大同団結していた。その得体の知れなさに,われわれ新人たちは批判を込めたまなざしで,冷やか に眺めながら参加してきた。そしていつの間にかわれわれもまた得体の知れない業界になれ親しんでしまった。それが,まぎれもなく短編映画業界の歴史でもあ る。いまでは巨大な情報産業の一翼を支えるささやかな映像部門として生き延びてきたといってもいいのかもしれない。

 わたしが短編映画と付き合うよう になったのは,朝鮮戦争勃発の翌年,1951年(当時21歳)からである。戦時中の国策会社であった社団法人日本映画社(通称日映)が崩壊した後,いち早 く誕生した上野耕三の記録映画社が最初の出会いであり,その後,元日映教育映画部のメンバーによる日映科学映画(石本統吉),新理研映画(小山誠治),朝 日映画社のメンバーによる三井芸術プロ(三井高孟),岩波映画(吉野馨治)などで,業界の先輩たちとの貴重な出会いを体験した。どの会社も,農林省や文部 省など官庁や公共団体のスポンサーに依存しつつ「文化映画」や「教育映画」,「社会科教材映画」をつくっていた。産業PR映画という概念には各社とも拒否 反応を抱えながら対応していたが,岩波映画だけは産業界のPR映画にも展望をもっていたようで,独自の方針をもって積極的に取り組んでいた。

 1956年から,日映新社の専属となって15年あまりを過ごしたのだが,ここではニュース映画(朝日ニュース)が主流であり,ニユース映画が劇場から姿を消すまで,短編とく産業PR映画は「鬼っ子」扱いのままであった。

 わたしがこの短編映画で出会った 先輩たちの多くは,最早この世にいないか,生存されていても今は消息すら定かでない。また劇場で上映されることのない映画は,一般に知られることもない し,ましてそれにかかわった人たちのことは,その業界の中の仲間たちや後輩たちの記憶にしかとどまらない。そのうち何人かの人は,幸いにも「回想録」(注 2)を残されている。まだ健在な人もいる。この先,何人かは書残す人が出るかもしれない。しかし,それはよほど幸せな生涯を送った人たちで,省みて「こん な筈ではなかった」と思う方が多いに違いない。せめてわたしがこの業界で出会った人の記憶について,独断に基づいて本人の了解なしに記録にとどめたいとい うのが,本意である。

(注1)「実用映画」と は,1966年ごろ社会科学校教材(歴史)映画を製作していた記録映画社社長の上野耕三が,産業界の要請に応えて提唱して始めた「動くカタログ」「動く教 材」で16㍉または8㍉の映画で短いものは4分のものからある。ちなみにこの年,上野さんは教育映画功労者として表彰されている。(1971年には紫綬褒 章)

(注2)上野耕三「回想録」(1980),白井茂「カメラと人生」(1983),

野田真吉「ある映画作家」(1988)厚木たか「女性ドキュメンタリストの回想」(1991),村山英治「桜映画の仕事」(1992) 


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